円覚寺 塔頭 雲頂菴

菴主の話

雲頂菴という寺を守る住職として、日々考えていることをお話していきます。

古文書「波多野景高代経貞軍忠状案」註〈人物〉

今日は、雲頂菴古文書「波多野景高代経貞軍忠状案」に関係する人物について解説いたします。
 

波多野景高(はたの かげたか)・経貞(つねさだ)

生没年出自等は未詳。
足利尊氏のもとで活躍した武士である。
経貞は景高の子息。

波多野氏は藤原秀郷の後裔で、相模国(神奈川県)の豪族。
『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』などによると、相模守藤原公光の子経範(公俊)が、摂関家(せっかんけ)《摂政・関白になることのできる家》領であった相模国余綾(よろぎ)郡波多野荘《神奈川県秦野市》を本拠地として成立したと考えられている。

のち、波多野義通の妹が源義朝に嫁していた関係から、保元・平治の乱では義朝軍に属した。
治承4年(1180)10月、波多野義常(よしつね)は源頼朝に敵対して松田郷で自殺したが、波多野荘は、叔父の義景に継承されたとみられる。
義常の長子有経(ありつね)はのちに許されて松田郷を拝領し、子孫は松田氏を称した。

なお、六波羅評定衆として活躍した波多野義重が、越前国(福井県)志比荘に道元禅師を請じて永平寺を創建したことは有名である。

一族の支脈に、河村・大友・菖蒲・沼田などの各氏がある。
 

畠山国清(はたけやま くにきよ)

?~1363
畠山家国の子で、初名阿波次郎、のち左近将監・修理権大夫・阿波守に任じた。
法名道誓。
足利尊氏・直義方の武将として活躍。

文和2年(正平8年/1353)7月、尊氏は鎌倉御所(公方)足利基氏(もとうじ)を補佐させるため、国清を関東執事に補した。

延文4年(正平14年/1359)基氏は将軍足利義詮を支援するため、東国の将士を中心とする国清軍を上洛させて功をあげたが、長陣のため、帰国する武士たちが相つぎ、ついで国清も帰鎌する。
国清は無断で帰国した将士を責めて所領を没収したりしたため、基氏はやむを得ず国清の鎌倉執事職を解き、伊豆へ追放した。

貞治元年(正平17年/1362)9月、基氏に降ったが許されず、上洛して南朝へ降る前に窮死した。
墓は伊豆韮山町の国清寺にある。
 

『尊卑分脈』:源氏・平氏・藤原氏・橘氏・菅原氏など主要な諸氏の系図の集大成。洞院公定(とういんきんさだ)の編著で、南北朝時代末に成立した。姓氏家系を調べるのには欠くことのできない重要な史料とされる。
 

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