円覚寺 塔頭 雲頂菴

菴主の話

雲頂菴という寺を守る住職として、日々考えていることをお話していきます。

「畏れ」を抱く心〈1〉

最近は、「罰(ばち)が当たる」という言葉が死語になってしまっていて、「そんなことをしたらお前、罰が当たるよ」って言ってくれる人もいなくなりました。

私の子供時代にも、「いじめ」はありました。
ガキ大将から「こんちくしょう、お前生意気だ!」なんて言われて、「ボカッ!」ってぶたれたり投げ飛ばされたりするということが、日常的だったのです。
ガキ大将がいて、その子分がいてっていう世界が、子供たちの中では公然とあった。
地主さんの息子だとか学校の先生の息子だとかっていう「社会的な序列」とは別な、地域のガキ大将が結構威張っていました。
でも、それはそれで意味があったと思うのです。

不良やワルもいましたが、そういう子たちも限度がわかっていた。
だから、人を殴ったり悪さをしたりしても、度を越えたことは不思議とあまり無かった。少なくとも、私が体験した中ではありませんでした。
「罰が当たる」という「畏れ」をどこかで抱いていれば、「あぁ、こんなことはしちゃいけない、もうこのへんで止めておこう」という力が働くように思います。

また以前は、「ちょっと和尚さん、こいつ悪いことしているから叱ってやってください」などと言って、年寄りが子供を寺に連れて来たりすることがありました。
精神的に落ち着かない子がいたら、
「じゃあお寺へ行って、お坊さんに話を聞いてもらいなさい」、
「教会に行って神様にお祈りしなさい」
そういう躾があったのではないでしょうか?
 

――引き続き明日も、この話をします。
 

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