円覚寺 塔頭 雲頂菴

菴主の話

雲頂菴という寺を守る住職として、日々考えていることをお話していきます。

漱石たちが求めたもの

先週の3月18日(水)から春のお彼岸に入りました。
そして明日24日(火)が彼岸明けとなります。

夏目漱石の小説に、『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』という作品があります。
明治45年(1912)の1月から4月まで、朝日新聞に連載されました。

漱石は、明治27年(1894)12月下旬から翌年1月7日まで、円覚寺で参禅しました。
その時の体験は、明治43年(1910)に発表した『門』などに描かれています。
同じくらいの時期に、島崎藤村も来ています(藤村は明治26年の夏から秋に滞在)。

『門』を連載した年に、漱石は瀕死の大病をしています。
そのあとに発表した『彼岸過迄』や『こころ』(大正3年の連載)は、彼の心の揺れ動く真っ只中に書かれた小説です。
たぶん漱石も、ずいぶん苦しんでいたのだろうと思います。

漱石たちが円覚寺に来たのは、幕藩制度が崩壊してからまだ20~30年ぐらいの頃です。
「文明開化」によって西洋文化が入ってきて、科学技術が画期的に進歩し、鉄道もどんどん伸びてゆきました。
暦も太陰暦から太陽暦に変わりました。
だからもう、本当に渾沌としていた時代だったのです。

明治維新により、これまでの価値観は壊されてしまいました。
そういう時代背景の中、「いったいどういう方向に自分たちは行くのか?」「今の、この価値観は本物なのか?」という、問いかけがあったのではないかと思います。
そして噂が噂を呼んで、円覚寺の今北洪川(いまきたこうせん)※1や、漱石が師事した釈宗演(しゃくそうえん)※2のような人たちのところに、「本物」を求める人々が寄って来たのでしょう。

たぶん、円覚寺だけじゃない。
求めている人は、奈良のお寺でも、京都のお寺でも、自分たちの問いかけに応え得る「これぞ」という人がいるところに近づき、その精神に触れようとしていたのだと思います。
 

※1 今北洪川(1816~1892):幕末・明治期の臨済宗の僧。号は洪川、虚舟、蒼竜窟。
円覚寺派初代管長。在家者の居士(こじ)禅を盛んにし、のちに弟子の釈宗演や鈴木大拙らによって開かれた新しい時代の禅の基礎を固めた。

※2 釈宗演(1860~1919):明治、大正期の臨済宗の僧。円覚寺、建長寺の管長を兼任。禅学の鈴木大拙博士も弟子の一人で、共に「禅」を「ZEN」として海外布教の基を築いた。
 

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