円覚寺 塔頭 雲頂菴

菴主の話

雲頂菴という寺を守る住職として、日々考えていることをお話していきます。

古文書「将軍家足利尊氏御教書案」註〈人物1〉

今日と明日は、雲頂菴古文書将軍家足利尊氏御教書案に関係する人物について解説いたします。
 

足利尊氏(あしかが たかうじ)

1305~58
足利貞氏の次男で室町幕府初代の将軍。はじめ高氏。
母は上杉頼重(よりしげ)の女清子(せいし)。妻は執権北条守時(もりとき)の妹赤橋登子(あかはし とうし)。
等持院殿・長寿寺殿と号した。

元弘の変(1331年)で幕府軍として西上した2年後に、丹波篠村(しのむら)八幡宮《京都府亀山市》で挙兵。
後醍醐天皇に応じて六波羅探題(たんだい)を滅ぼし、建武新政第一の功臣となり、天皇の名の一字を得て尊氏と改名した。

尊氏の叛旗より10日遅れて新田義貞が挙兵し、元弘3年(1333)5月鎌倉を陥れて幕府は滅亡した。
尊氏の嫡子で4歳の義詮(よしあきら 千寿王)は「大将軍」《増鏡》の形で義貞とともに入鎌している。

建武2年(1335)7月、北条氏の残党が挙兵すると《中先代の乱など》、尊氏は下向してこれを追討し、浄光明寺に蟄居(ちっきょ)したが、のち、新田義貞征伐を名目に建武新政にそむいて上洛した。

翌建武3年、北畠顕家(あきいえ)らに敗れたが、再挙して湊川に楠木正成(まさしげ)らを破り、同年11月、「建武式目」を制定して、京都に室町幕府を開創した。
 

貞和5年(正平4年/1349)9月には、鎌倉を重視した尊氏は、4男基氏(もとうじ 光王丸)を下向させ、鎌倉府(鎌倉御所・関東公方)をおいて、その首長とし、執事高師冬(こうの もろふゆ)・上杉憲顕(のりあき)の2人を補佐にあてて、関東十ヶ国を管轄させている。
 

幕府内では、執事高師直(こうの もろなお)・師泰(もろやす)らの術策で弟足利直義(ただよし)と対立し、文和元年(正平7年/1352)2月、直義を鎌倉で毒殺している。

翌文和2年5月、逃走していた北条時行(ときゆき)らを龍ノ口に斬ったのち、7月に京都へ向う。
尊氏・義詮父子が後光厳天皇を奉じて入京したのは9月21日のことであった。
これよりさきの6月、南朝軍が京都に迫ったおり、後光厳天皇は延暦寺に身を寄せていた。

延文3年(正平13年/1358)4月30日、中国追討を計画中に死没。54歳。法名仁山妙義。
夢窓国師と親交し、あつく地蔵を信仰した。
 

※ 鎌倉御所(かまくらごしょ):室町幕府が鎌倉を重視して設置した鎌倉の首長のこと。
鎌倉公方(くぼう)・関東公方・鎌倉殿ともいう。

 

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