円覚寺 塔頭 雲頂菴

菴主の話

雲頂菴という寺を守る住職として、日々考えていることをお話していきます。

祈りが心の芯となる〈2〉

自分が信じられるものに対し、しっかりとした拠りどころを求めて祈る。

例えば「坐禅」というのは、お経を読んだり、お題目を唱えたりするような、「祈り」の一つでもある。
自分の精神的な救いを求めて坐禅する方もいるけれど、それもまた信仰の形なのだろうと私は思っています。

私は、仏教じゃなきゃダメだなんて言いません。
キリスト教が自分に向いているなら、教会に行ってごらんなさい。
牧師さんでも、神父さんでも、お話を聞いてみるといい。
それから、神道。
「うちは神道です」と、神様に帰依する人もいらっしゃる。

よく見ていると、お寺にもお出でになるけれど、神社に行って熱心に祈っている人がいます。
毎週は行けなくても、折々に教会へ行って、神父さんのお話を聞く人もいる。
仏か神か……それは、皆さんにどういう出会いがあるか、です。

それぞれの方が、自分に一番合う道を見つけてゆけばいい。
祈りを通じ、それぞれの道で自分の心を耕すのです。
そうすれば必ず、「これでいい」「あぁ、こうなのだ」という落ち着きどころが備わってゆく。

心に芯ができれば、人から何か言われても、上手に柔軟に対応できるようになります。
私はね、「揺るがない芯」じゃなくていいと思っています。
私だって揺れます。年中揺れている。
だけど、いっときは揺れるのだけれど、ちゃんとしなやかに復元するのです。

ところがまたね、時間がたつと揺らぐのですよ。
信念があってもまた揺らぐ。
だから、信仰というか、祈りというのは、「単調な祈り」を繰り返し繰り返し続けていかなきゃいけないものなのだと思います。
 

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