円覚寺 塔頭 雲頂菴

菴主の話

雲頂菴という寺を守る住職として、日々考えていることをお話していきます。

遅八刻(ちはっこく)〈2〉

私は、幼稚園くらいの歳からお経を耳で憶えてきました。
そして中学生までには、日常読むお経はほとんどひと通りそらんじていました。

ところが、円覚寺の修行道場から戻り、父について副住職をやっていた頃、親しいお檀家の法事で突然、「今日はこれを読むんだ」と普段は読まないむつかしいお経を出されました。
私はそのお経を、仮名をふった経本で練習していました。
しかし、父から渡されたのは仮名がないものでした。
稽古はずっとしていたので、読めないことはない。
けれど、父が読むような早いスピードではとても読めず、えらい恥をかきました。

もうしょうがない、翌朝から必死でそのお経を読みました。
だって、上手く読めるようになるには練習するしかないのですから。

仮名をふってあるもので稽古しているようじゃ、「遅八刻」だということなのです。
「何やっているんだ、暗記するぐらいじゃなきゃだめなんだ」と。
おかげで今はすらすら読めます。
最近では、そのお経をちゃんと読める人、そうはいないのです。

「こいつは、言ったくらいじゃ稽古なんかしやしない。もう、人前で恥をかかせるしかない」
……という父の慈悲。
そういう厳しさなのです。
そんなふうに鍛えてくれる師匠、今どきはもういないですね。
私は自分の息子に、そこまではできなかった。
それでも私のことを「厳しい」と言いますから、世の中の厳しさっていったい何だろうって思います。

父には、お客さんの前でも法事のような大事な場面でも、ところかまわず叱られました。
父が教えてくれたのは、「普段が大事、日常が大事なのだよ」ということです。
普段から練習しておかなかったら、お経すら読めません。
日常、何をやっているのか?
毎日の規則正しい単調な生活で、当たり前のことを当たり前に行う。
その当たり前が大事なのです。
 

——明日もこの話を続けます。
 

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