円覚寺 塔頭 雲頂菴

菴主の話

雲頂菴という寺を守る住職として、日々考えていることをお話していきます。

お盆という行事

私は、幼稚園から小学校の前半、お盆の時期にはずっと父の郷里である富山へ行っていました。
要するにその時期、寺は忙しいので、手間のかかる子供は「田舎で夏休みを過ごして来い」と放り出されちゃう。

そのため、幼かった頃は、在家の側の立場で和尚さんを迎えていたことになります。
このことは自分にとって、たいへん良い経験になったと思います。
迎える側が、どういうふうな気持ちになるか、わかるのです。

まず、
「和尚さんが来るんだから、掃除しておかなきゃ」
ってなるわけですね。

お盆が来るから……でもあるのだけれども、お坊さんが来るから皆できれいにする。
掃除をしたあと、普段とは違うお飾りをする。
いつもは人があまり通らない仏間も丁寧に掃除をする。

それから、お墓掃除もしておく。
田舎の墓だから、もう草ぼうぼうなのです。
鎌、軍手、蚊取り線香を抱え、バケツに水をくんで持って行きます。
そして草を刈り、道をつけてきれいにする。

年末に次いで、精神的にも1年の大きな区切りをつける時期なのだなって、子供心にも思いました。
 

普段はご先祖様に手を合わせることなどなかなかない人でも、1年の節目としてお盆を上手に活用すれば、気持ちも新たにできてすごくいいと思います。

「こんなスピードの速い時代、お盆に集まって先祖供養するなんて面倒だよ」って言えばそれっきりです。
それでもう、終わっちゃう。
皆たいへんなことは合理化して簡単にしていこうという傾向があるのだけれど、それを突き詰めていったら、ただ楽をし、怠惰になるだけではないでしょうか。

お坊さんとしてうかがう側も、同じお経を一日中繰り返し読み続けるという試練を味わいます。
また、迎えてくださる側も、手間をかけてお掃除をしたり、お飾りなどの準備をしたりする。

それを止めてしまうということは、お互いに磨き合う場をなくすということなのです。
本来ならばお互いに磨きあっていく貴重な機会を、自ら失くしてしまう。
だから磨かれないし、鍛えられない。
あるいは、そういう行事を通してお互いに気づくことがあるのに、気づけなくなってしまう。

日本人の多くは、毎週必ずお寺に行くというような習慣がありません。
しかしその代りに、お盆やお彼岸のような大きな節目ごと、丁寧に心を磨く時間、精神性の豊かな時間を作ってきたのではないでしょうか。
 

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