お焼香にこめる思い
7、8月はずっと、「お盆」にまつわる話をしました。
お盆やお彼岸など、毎年当たり前のようにやっていることでも、案外、その意味をよく知らないままなさっている方は多いようです。
お通夜やお葬式などの仏事もそうですね。
そこで、今日は「お焼香」の話をしようと思います。
私の寺の本坊からちょっと離れたところにお堂があります。
そのお堂の観音様は、12年に1回御開帳します。
前回御開帳した時、地域の郷土を勉強するため、小学生がお参りに来ました。
ところが、お堂に来た子供たちは9割方、お焼香のことを知りませんでした。
お焼香台を見て、「これ何?」って言うのです。
子供たちがお焼香を知らないということは、たぶんその親も、形くらいは知っていても、中味はわかっていないのではないでしょうか。
そう気がついてから、私はお通夜の前にまず、「お焼香の意味は、こういうことですよ」と、皆さんに話すことにしました。
お焼香の話をする時、よく回数のことを聞かれます。
皆さん、形は気にするんですよ。
ところが、「お焼香はどういう意味があるのですか?」ということは、聞かれたためしがないです。
「お焼香は、1回でも2回でも3回でも、自分の気が済むようにやってください」とお伝えしています。
ただ、「長い行列ができている時はちょっと考えてあげてくださいね」と言うくらいです。
だけどこの頃は祀りごとをコンパクトにする傾向がありますから、「長い行列ができる」という状況は少なくなっています。
ですから、「まわりはどうしているかな? 1回かな? 2回かな?」ということに心を動かすよりも、無になってお焼香していただきたい。
「無になる」というのは、何も無いという意味ではありません。
「二つ心なく」つまり、「一心に」ということです。
一心に集中していれば、雑念の入る余地がなくなるのです。
「懇(ねんご)ろに、お別れをちゃんとする」ということが大事ではないか、と思います。
「香を焚く」というのは、いろんな意味があります。
茶道とか華道の他に、香道というのがあるぐらいですから。
奈良・東大寺の正倉院に、「蘭奢待(らんじゃたい)」という大きな香木があります。
要するにお香の原木ですが、何箇所か削られているそうです。
ここは足利義政(室町幕府第8代将軍)が削ったところ、ここは織田信長が削ったところ、こちらは明治天皇が削ったところ、と、和紙に書いて糊で貼ってあります。
(他にも削られたとおぼしき跡があり、削ったと噂されている人物もいるようです)
足利義政も、織田信長も、わざわざ東大寺の正倉院を開けさせて蘭奢待を削り、そのお香を焚いている。
このことからもうかがい知れるように、香木は非常に珍重されていたし、お香を焚くのは尊いこと、普段あまりないこと、有難いことでした。
教会でも、神父さんたちがお香を焚きます。
振り香炉に入れて揺らしていますよね。
仏教で香を焚くのとはちょっと意味が違うかもしれませんが、やはりそこにたくさん意味があるのだろうと想像できます。
別れの場でお香を焚く、焼香をするのは、意味が二つあると思うのです。
一つは、「お疲れ様でした」という、ねぎらいの気持ち。
その方の生涯の労……例えば家族のためにずっと働き続けたということに対して。
また、病を患ってきた方には、「本当に闘病生活ご苦労様でした」というねぎらいの気持ちが必要なのではないでしょうか。
もう一つは、感謝です。「ありがとう」という感謝の気持ち。
抹香を指でつまんでおでこに押し戴き、ねぎらいと感謝の気持ちを念ずるわけです。
そして、その気持ちが亡くなった方に届くようにと、火にくべる。
これは、私独自の説明なのですが……別れの場というのは、「ねぎらい」と「感謝」、その二つに集約されると思うのです。